ビデオゲームの歴史総まとめ - 1950年代の実験から現在まで
テニス・フォー・ツーとスペースウォー!からポン、アーケード黄金期、1983年の北米市場崩壊、NES、3D化、オンライン・モバイル・クラウド・インディーゲームまで、ビデオゲーム70年の流れを一気にまとめます。
今ではスマートフォンさえあれば誰でもゲームができますが、最初のビデオゲームは研究所の大きなコンピューターとオシロスコープの画面の上で始まりました。それから70年近くの間に、ゲームは研究者のおもちゃから、コインを入れるアーケード機へ、リビングのコンソールへ、そしてインターネットや携帯電話へと居場所を移してきました。
この記事では、ビデオゲームの歴史を大きな流れを中心にまとめます。1950年代の実験、1970年代の商業ゲームの登場、アーケード黄金期と1983年の北米市場崩壊、任天堂による復活、1990年代の3D化、そしてオンライン・モバイル・クラウド・インディーゲームへと続く変化を時代順に見ていきます。各時代に何が変わり、その変化が今のゲームにどう残っているのかに焦点を当てました。
1950〜60年代:研究所で生まれたゲーム
最初期のコンピューターゲームは、娯楽よりも研究やデモンストレーションのために作られました。1951年にイギリスのフェランティ(Ferranti)社は、ニム(Nim)というゲームをするために作られたコンピューター「ニムロッド(Nimrod)」を発表し、1952年にはサンディ・ダグラスがケンブリッジ大学のEDSACコンピューター上で、CRT画面を使って三目並べを遊ぶ「OXO」を作りました。コンピューターに何ができるかを示すための用途だったわけです。
1958年には、アメリカのブルックヘブン国立研究所の物理学者ウィリアム・ヒギンボーサムがテニス・フォー・ツー(Tennis for Two)を作りました。研究所の年次公開イベントに訪れた来場者のために、アナログコンピューターとオシロスコープで横から見たテニスコートを映し、つまみでボールの角度を決めてボタンでボールを打ち返す仕組みでした。イベント期間中は行列ができるほどの人気を集めましたが、その後解体されて忘れられ、1970年代後半のビデオゲーム特許訴訟でヒギンボーサムが証言したことで再び知られるようになりました。研究や技術のPRではなく純粋に楽しむために作られた初期のゲームという点で、「最初のビデオゲーム」とされることもあります。
1962年には、MITでスティーブ・ラッセルと仲間たちがDEC PDP-1コンピューター向けにスペースウォー!(Spacewar!)を作りました。2人のプレイヤーがそれぞれ宇宙船を操縦し、恒星の重力の中で互いを攻撃し合うゲームで、コードが自由に共有されたことでPDP-1が設置されたさまざまな機関に広まりました。複数のコンピューター施設でプレイされた最初のゲームであり、のちに登場する最初の商業用アーケードゲームに直接的なインスピレーションを与えました。
1970年代:商業ゲームとゲームセンターの誕生
1971年、ノーラン・ブッシュネルとテッド・ダブニーは、スペースウォー!をコインを入れて遊ぶ機械にしたコンピュータースペース(Computer Space)を発表しました。最初のアーケードビデオゲームであり、初めて販売されたビデオゲームで、1,000台以上売れましたが、メーカーが期待したほどの大成功ではありませんでした。
2人は1972年に会社をアタリ(Atari)と改め、アラン・アルコーンが作ったポン(Pong)を発売します。卓球をシンプルに再現したこのゲームは商業的に成功した最初のビデオゲームとなり、数多くの模倣作があふれたことで、ゲーム産業が本格的に幕を開けました。同じ年の9月には、ラルフ・ベアが設計したマグナボックス・オデッセイ(Magnavox Odyssey)がアメリカで発売されました。テレビにつないで遊ぶ最初の商業用家庭用ゲーム機で、音も得点表示もなく、画面に貼るプラスチックのオーバーレイで絵を補う機械でした。オデッセイの卓球ゲームはポンのアイデアの元となり、マグナボックスはその後アタリを特許侵害で訴えました。
1970年代後半には、2つの変化が重なります。1つは、ゲームをROMカートリッジに収めて差し替える方式です。1976年にフェアチャイルド・チャンネルF(発売名VES)が初めてこの方式を採用し、1977年に登場したアタリVCS(のちのアタリ2600)がこれを普及させました。もう1つは、1978年のタイトーのスペースインベーダーから始まったアーケード黄金期です。マイクロプロセッサーを使ったゲームが次々と登場し、ゲームセンターは大衆文化の中心になりました。
1980年代初頭:アーケード黄金期と1983年の崩壊
1980年のナムコのパックマン、1981年の任天堂のドンキーコングなどが相次いで成功し、ゲームには名前のあるキャラクターが登場し始めました。同じ時期にアタリ2600版のスペースインベーダーが発売されるとコンソールの販売が4倍に伸び、このゲームは初めて100万本以上売れたゲームになりました。
しかし、成長は長く続きませんでした。インテレビジョン、コレコビジョン、アタリ5200など似たようなコンソールが次々と登場し、アタリ出身の開発者たちが設立したアクティビジョンの成功を見た多くの会社がゲーム開発に参入したことで、品質の低いゲームが市場にあふれました。1982年に急いで発売された『E.T.』の不振や、値下がりした家庭用コンピューターとの競争まで重なりました。
その結果が1983年の北米ビデオゲーム市場崩壊(いわゆるアタリショック)です。英語版ウィキペディアにまとめられた資料によると、アメリカの家庭用ゲーム売上は1983年の約32億ドルから1985年には約1億ドルへと、ほぼ97%減少しました。この崩壊によって北米での第2世代コンソールの時代は終わり、当時のアナリストの間ではゲーム産業が長続きするのかを疑う声まで上がりました。ゲームセンターも同じ時期に模倣作があふれ、熱気が冷めていきました。
1980年代半ば:任天堂と市場の再建
市場を再び立ち上がらせたのは、日本から来た機械でした。任天堂は1983年7月15日に日本でファミリーコンピュータ(ファミコン)を発売し、これを北米向けにデザインし直したNESを1985年10月にアメリカのテスト市場に投入しました。崩壊後の「ビデオゲーム」への拒否感を避けるため、外見をビデオデッキのように変え、光線銃ザッパーやロボットのR.O.B.(ファミリーコンピュータ ロボット)といった周辺機器を前面に押し出しました。
任天堂は、崩壊の原因だった品質管理の問題にも手を打ちました。認証チップのないカートリッジは動作しないようにし、サードパーティーの開発会社とライセンス契約を結んでゲームを発売させる方式を採用しました。カプコン、コナミ、ナムコ、エニックス、スクウェアといった会社が参加し、『スーパーマリオブラザーズ』(1985)、『ゼルダの伝説』(1986)、『ドラゴンクエスト』(1986)、『ファイナルファンタジー』(1987)などがこの時期に登場して、現在まで続くシリーズとなりました。NESは全世界で6,191万台を売り上げ、サードパーティーライセンスという今の標準的なビジネスモデルを作ったと評価されています。
1980年代末からは、セガのメガドライブ(北米名ジェネシス、1988)とスーパーファミコン(1990)がぶつかり合う16ビット競争が続きました。1989年には任天堂のゲームボーイが登場し、携帯ゲーム機市場を切り開きました。
1990年代:3Dへの移行とCD-ROM
1990年代のゲーム産業で最も大きな変化は、リアルタイム3Dグラフィックです。それ以前にもベクターグラフィックやスプライトの拡大・縮小で立体感を表現したゲームはありましたが、ポリゴンをリアルタイムで描く方式を大衆化したのは、セガAM2の『バーチャレーシング』(1992)と『バーチャファイター』(1993)でした。当時のソニーの関係者は、バーチャファイターの成功を見てプレイステーションを3D中心のハードウェアとして設計したと語っています。
PCではid Softwareが『Wolfenstein 3D』(1992)、『DOOM』(1993)で一人称シューティングというジャンルを生み出し、1996年の『Quake』はキャラクターや物体まで3Dモデルで表現する本格的な3Dエンジンを披露しました。idがエンジンをほかの会社にライセンスしたことで、「ゲームエンジン」という概念も定着しました。
記録媒体も変わりました。カートリッジより容量が大きく安価なCD-ROMが広く使われるようになり、1994年に登場したセガサターンとソニーのプレイステーションはCDを標準の媒体に採用しました。大容量のおかげで映像や音声が豊かになり、メモリーカードで進行状況を保存できるようになったことで、『ファイナルファンタジーVII』のような長い物語のロールプレイングゲームが大成功を収めました。1996年に登場したNINTENDO64はカートリッジにこだわりましたが、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』のような3Dの代表作を残しました。
2000年代:オンラインゲームとeスポーツ
インターネットが広まると、ゲームは一人で遊ぶものから、ほかの人と一緒に遊ぶものへと変わりました。1980年代の大学ネットワークのテキストゲームMUDから始まったオンラインロールプレイングゲームは、『Meridian 59』(1996)、『ウルティマ オンライン』(1997)、『エバークエスト』(1999)を経て、『ワールド オブ ウォークラフト』のような大型MMORPGへと成長しました。
eスポーツもこの時期に定着しました。英語版ウィキペディアは、プロのeスポーツが2000年ごろに韓国で『スタークラフト』や『ウォークラフトIII』のようなリアルタイムストラテジーゲームを中心に始まったとまとめています。コンソールもオンラインにつながり始め、1998年に日本で発売されたセガのドリームキャストはモデムを内蔵した最初の家庭用コンソールとなり、2001年にはマイクロソフトが初代Xboxとともにオンラインサービス「Xbox Live」を発表しました。
2000年代後半〜2010年代:モバイルとインディーゲーム
携帯電話のゲームは、1997年にノキア6110に搭載された『スネーク』のように、暇つぶし用にとどまっていました。状況を変えたのは、2007年のAppleのiPhoneと、2008年にオープンしたApp Storeです。開発会社の規模に関係なく誰でもゲームを直接リリースして販売できるようになり、Googleも同じ年にAndroid向けのアプリマーケット(2012年にGoogle Playへ名称変更)をオープンしました。
2009年10月にAppleがアプリ内課金を導入すると、ゲームを無料でダウンロードし、必要な分だけお金を使う「基本無料(フリーミアム)」モデルが広まりました。2012年の『キャンディークラッシュ』や『パズル&ドラゴンズ』が、このモデルの収益性を示しました。モバイルゲームが大きくなるにつれ、専用の携帯ゲーム機市場は相対的に縮小していきました。
同じ時期には、小さなチームが作るインディーゲームも大きな注目を集めました。Flashゲームブーム、2004年に始まったXbox Liveアーケード、Steamでのインディーゲーム販売、Kickstarterのようなクラウドファンディングが、流通と資金調達の道を開きました。2009年の『マインクラフト』の成功は、開発中のゲームを先行販売する「早期アクセス」を現実的な選択肢にし、『Braid』『Super Meat Boy』『FEZ』といった作品が批評と販売の両面で名を上げました。
現在:クロスプレイ、クラウド、そして新しいハードウェア
2010年代後半からは、プラットフォーム間の壁が低くなりました。2017年に発売されたEpic Gamesの『フォートナイト』は、コンソール・PC・モバイル間のクロスプレイを広めるきっかけとなり、2018年にはソニーも一部のゲームでクロスプレイを認めました。
クラウドゲームは、2009年にOnLiveやGaikaiといったサービスで初めて登場しました。ゲームをリモートのサーバーで実行して画面だけを受け取る方式なので、高価な機器がなくても高スペックのゲームを遊べますが、ネットワークの遅延という限界があります。その後、PlayStation Now、NVIDIA GeForce NOW、Xbox Cloud Gamingなどが続き、Google Stadiaは2023年にサービスを終了しました。
ハードウェアは、2020年11月のXbox Series X|SとPlayStation 5、2025年6月のNintendo Switch 2へと続いています。リアルタイムレイトレーシングと高速SSDが標準になり、コンソールとPCの境界は以前よりもはるかに曖昧になりました。
まとめ:70年間で変わったもの、変わらなかったもの
ビデオゲームの歴史を振り返ると、技術と流通の方法は変わり続けてきました。オシロスコープからCRTへ、カートリッジからCDとデジタルダウンロードへ、ゲームセンターからリビングとスマートフォンへ、そしてクラウドへと移ってきました。1983年の崩壊のように品質管理に失敗すると市場全体が揺らぎかねないという教訓も残りました。
一方で、変わらなかったものもあります。テニス・フォー・ツーの前に並んだ来場者も、PDP-1の前でスペースウォー!で対戦した学生たちも、今スマートフォンで短いパズルを解いている人も、みな「自分で操作して反応を見る楽しさ」を求めているという点です。技術は、その楽しさをより多くの人に、より多様な形で届ける方向へと発展してきたといえるでしょう。